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中町の猩々山車の来歴については、書類等による記録もなく口伝により受け継がれてきた。

42年前までは山車蔵もなく、祭礼の都度山車を解体保管されていたことから、幸い幕、彫刻及び高欄を収める木箱が保存されていた。平成29年(2017)10月に山車蔵内を調査したところ、彫刻及び高欄を収める木箱にも重要な記載が遺されていたので、これら木箱に記載されている内容を基に中町猩々山車の来歴を紐解いてみたい。

先ず、幕を収納した木箱は3点保存され、それぞれの蓋には「安政六年己未歳霜月 ■■幨緑紅紫 三色■欄下帘 中町」(写真①)、「明治十一稔歳在戊寅十月 髙欄幨濤魚縫一展 中町」(写真②)、「明治十一稔歳在著■欇■格十月 櫨盤幨一展 中町」(写真③)と箱書きされている。①の底には、幕の来歴が記されている(写真④)ので原文のまま掲載し、その訳文についても併せて掲載する。

※■は判読不能

【原文】

【和訳】

往年、金襴の幨(タン 帳)や幣も絶えてしまい、さらに緑と紅と赤の三色の羅紗もいわゆる縞耳(耳は端の意)のもの、乳耳のもの、一重用の懸形の裾をちぢめてしまった。翌年耳を取ってしまい、縁に付けてしまった。なお、かなり大きく裾をちぢめてしまい、また、翌年縁をほどき、縮縫(縦に縫い合わせる)した。このように、3回縫ったゆえに、上げふたの緑の幨は、思いがけず4寸余り開いてしまい合わなくなった。3回縫ったものはおそらく20余年を経て、嘉永4年辛亥正月3日に焼失してしまった。去年(安政5年)山車を作り、今年、新しく3枚の幨と一枚の帘(レン。すだれのこと。)を買ったが、後年の疑問を持たないためにも端にこの旨を記すのでこの文章は廃棄しないでください。
安政六年己未歳十一月
 中町

写真➀の記載については長年にわたり訳されておらず、写真④文中の「嘉永四辛亥正月三日焼失」を山車本体の焼失と解釈されてきたが、訳文によると嘉永4年(1851)に幕が焼失されたことが読み取れる。

山車土台部分の製作年については、「去年造車」すなわちこの箱書きの1年前の安政5年(1858)であることが判明した。因みに訳文「3回縫ったものはおそらく20余年を経て」とあることから、中町山車は少なくとも天保元年(1830)以前より存在していたことが読み取れ、何らかの事情で山車を新調したものと思われる。

また、前述のとおり、高欄と提灯吊等を収める木箱(写真⑤)が5箱保存されているが、それぞれの底には以下の記載が見られる。
・中段高欄を収める木箱(a)「慶応二年(1866)丙寅歳五月中旬吉祥日」
・獅子牡丹の彫刻及び花菱の彫刻を収める木箱(b)「慶応二丙寅年四月嘉祥」
・最下段の4本柱を収める木箱(c)「慶応二丙寅年五月吉日」
・提灯吊を収める木箱(d)「慶応二年丙寅歳五月吉日作 工匠 越後出雲崎」
・提灯吊柱等を収める木箱(e)には「慶応二年丙寅歳四月吉日」
この記載から、土台部分の製作から中段高欄や提灯吊等まで揃えるのに8年の歳月を要したことが窺える。さらに、車軸の中心部分には、1本柱の跡が見られることから、当初は1本柱構造の山車であったことが認められる。

最上部に連なる三味線胴取付枠・人形枠は、人形を迫り上げできる構造となっており、後年(明治11年(1878))までには別の山車から取り付けられ、その時点で1本柱が取り除かれたものと推定される。

中段高欄下には、彫も良く色彩豊かな彫刻(写真⑥)がはめられ、前には霊鳥「鳳凰」、後に霊獣の「麒麟」で対をなし、左右に青龍・朱雀・白虎・玄武の四神により飾られている。この彫刻の作者は、長年不明であったが、山車蔵の調査によりそれぞれの彫刻を収める木箱(写真⑦⑧)のひとつに「萬延元年(1860)庚申歳十一月吉日 彫工 河原明戸村 飯田岩次郎」と記載され(写真⑨)、彫刻の作者が判明した。さらに、今回の修復にあたり彫刻を外したところ、下板には墨絵の龍が描かれているのが発見された(写真⑩)。これは、彫刻が完成するまでの間の繋ぎであったと思われる。

<飯田岩次郎>
彫師。熊谷市内川原明戸に住し、宮大工飯田家の同族。国宝 妻沼聖天堂の彫物大工棟梁と言われた石原吟八郎を祖とする彫刻師石原流のひとり。
作品に東松山市箭弓神社本殿拝殿彫刻(1838)、秩父市屋台欄間彫刻(1839)、同屋台鬼板懸魚(1851)、秩父市三峰神社水屋八方睨み獅子(1853)等。明治18年11月23日没す。

最下段の幕(ア)については、写真①の箱の底に記載されているとおり、三色の幕が左右後に張られ、前には簾を下げていたようである。その後、写真②の箱書きにあるとおり明治11年(1878)には、鰐鮫や鯛、海老等の刺繍を施した立派な幕が新調された。

中段の鳳凰の幕(イ)については、写真③の箱書きから明治11年に新調された。

三味線胴下の幕(ウ)は、甕の刺繍が施されたもので、三味線胴に載せられる猩々人形との関連性が推測される。はっきりとした製作年はわかっていないが、少なくとも三味線胴を取り付けた明治11年頃以降であると推測される。

これら全ての幕は、約100年間にわたり山車を彩ったが損傷著しく、昭和52年(1977)に同様の幕を新調し現在に至る。

中町山車に据えられている人形は、お酒に関係の深い中国の福の神、真っ赤な面をつけた猩々人形である。面を外した素顔は、在原業平とも伝えられ、渡御は素顔、還御は面をつけて巡行される。

大正期の電線架設で人形を載せたままの巡行が出来なくなり、人形を取り外すことで高さを下げて巡行するようになった。それ以降、人形を載せないことが通例となり、年月とともに人形の存在すら忘れられるようになるが、平成18年(2006)にお頭、お面、衣装が発見され(写真⑪)、平成22年(2010)に中町の年番町に合わせ修復復元を行い(写真⑫)、60年ぶりに猩々人形を載せて巡行した。なお、現在も胴体は発見されていない。

平成29年(2017)の秋季例大祭時の事故により、お頭の一部が損傷してしまったことから、平成30年(2018)に再度修復を行った。その際、内部を調査したところ、製作者や製作年の手がかりを見つけることは出来なかったが、製作から100年以上経過しているものと推測される。

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